昭和51年05月14日 朝の御理解
御理解 第57節
「金の杖をつけば曲がる。竹や木は折れる。神を杖につけば楽じゃ。」
神様一心に縋ると言う事を、具体的に教えておられる訳ですね。神様に一心に縋る。そこからいうならば、最高のおかげが受けられると言う事です。神様一心になればこういうおかげが受けられると言う事を体験する。そこに楽じゃというどう言う事があっても、神様一心にお縋りをすれば、間違いがないというその確信に基づいた、生活が出来るようになるというのです。けれども矢張りこれは見やすい事とは思われません。
もう昔の話ですけれども、椛目に人が助かり出した時分でしたが、あの北野の秋山さんのところの近所に黒岩さんという方が、まぁ熱心に参って来ておりました。娘さんが私と同じ性の大坪さんというんです。その大坪さんが筋炎で、あの難儀しておられる。あれは医者で切ってもらうと、又次に出るんですね。切ったんではもう次から次と、そのうまぁ切らなきゃならない。
そこでそのお母さんが熱心に、信心を致しておりましたから、娘さんにどうでもひとつ、当時の椛目にお参りをしておかげを頂かんのと。もう医者じゃいかんばい薬じゃいかんばいと。いうてその導かれたものですから、お母さんも何時頃には参って来る。なら私は、病院に行って帰りに、椛目で会おうというので、まぁ参って見えた。そして丁度医者からもらって来た色んな薬とか、まぁそう言う様なものをもうハンカチに包んで来て持って来てありましたが、お母さんがそれを前の溝に綺麗に捨ててしまったです。
そして「もうこげなもんには頼らずに、とにかく大坪先生に縋りなさい」、とまぁ熱心に信心の話しをして、おかげを頂いたんですけども。本当にそれっきりおかげ頂いたです。今あの大坪さんおんなさるじゃろうかあの人。秋山さんあんたたい。覚えておるでしょうもん。「黒岩」さんてパン屋しよんなさった。娘さんが大坪さんちいわっしっやてたい。あれ筋炎の時におかげ頂いたのは、そげな事でしたもんね。やっぱ相当あれだけにやっぱ信念を持っちゃったわけですね。その当時。
それがある事情でお参りしてこんようになりましたけれども、本当にですね、あのう様に一つの一心を立てましたという証なんですよね。これは。そういう例は幾らもありますよ。もうあの勿体島からあの人は、大場おきんちゃんというお婆ちゃんが参って来るんです。もう当時もう70やがて80というぐらいでしたが。もうそりゃもう本当にもう、見ただけでもぞうとするようなね、足にもう何かこう出来てるんですよ。それでお願いに来よりなさいましたがね。
私が丁度御本部参拝をさせて貰いよる、あのしておる時にあのう参ってみえて。昔あの善導寺の教会に参った事があって、あの時分の事でしたが。金光大神様とはいわんですよね。金光大神明神様というて拝まれよったです。あの原さん当たりは知っとんなさいますでしょう。あのきんちゃんばばさんという惨めなおばさんでした。あの方がもうそれこそ、あらゆる温泉に行きあらゆる薬を付けても、それこそ風呂敷包みにこうするしこあの薬をつけたり、貰ったりして色々しておられたけれどもどうしても良くならん。
ちょうど私が御本部参拝させて頂く時でしたから、もう私は今度は御本部で金光様にようとお願いして来るけんが、もう薬やらなんやらもう頼らんなおかげ頂きなさい。私がようとお願いしてくるけんのというて、本部参拝から帰って来た時には、もうすっかりそれこそ面を外したように、もうとにかく針のようなのが一本一本、引き抜いた抜けたというぐらいにおかげを頂いた。もうそれがねもう先生があげん言いなさったから、薬は全部もうそれこそ。
もうお金でいうならあの時分にやっぱり5円、5円やがて10円近くぐらい買うとったっち。ならその時分の金ですからね。それを全部捨ててしもうて、親先生が御本部でお願いしてくれよりなさるけんでと思うて、おかげ頂きました。御本部から帰って来る間にですよ。おかげ頂いてもう本当にスッキリです。だから信心のその本当の妙というかね、もうあれに縋りこれに縋り、薬に頼む医者にと色々な事ですね。問題でもあの人に頼もう、この人に頼もうと。そして神様にも頼もうというのではね。
これは本当のおかげになりませんですね。本当のおかげにならんです。例えば本当のおかげというものが百であるならばですね、その30か50か、20か10ぐらいのおかげにはなりますよ。やっぱそれだけ向かえば向かっただけのおかげは受けますよ。けれどもね本当のいうならば、充分のおかげを頂こうと思えば、と言う事になってくるとね、もう、そこにはどういう事になるかというと、そのやはりままよという心が生まれてくるからだと思うです。
それを全部捨ててしまうということ。もう勿論神様一心に縋るのですから、その一心の、縋り様も違うてくるんです。もう神いうならば背水の陣というのは、そういうことを言うのでしょう。もうこれから一歩も下がれん。もう医者もなからにゃ薬もない。あの人に頼んどったばってん、この人にも言うとったけれども、もうそういうことは一切を投げ捨ててです、神様へ向かうというのですから、もう向かうのも、ただの向かい方じゃないわけです。もう後ろにはひざられんのです。
後ろが川だと言う様な所に陣どった、ということがいわゆる背水の陣というわけです。ね、背水の陣を引いての神様への願い。そこには百のおかげが百充分のおかげになってくる訳です。皆さんそういう信心をね、体験をさせて貰う時にです、その体験がいうなら、体験を生んで行くというか、そういう生き方を生活の上に頂けた時、初めて神を杖につけば楽じゃという事になるのじゃないでしょうか。
金の杖をつけば曲るということは、どんなに金を持っておって、金の山をつんでおっても、金だけではどうにも出来ない事がある。地獄の沙汰も金次第。と言う様な事を申しますけれども、そりゃなるほど地獄の沙汰は金次第かも知れませんけれども、極楽の沙汰だけは金ではどうにも出来ないという、極楽ということは今日私がいう、最高のおかげというのです。やはり金の杖をつけば曲る。木や竹は折れる。どんなに木がしゃんとしてござってもです、女でいうならばあっちは男勝りと言った様な人であってもです。
さぁ次々と困った問題が起きて来ると、その強いはずの木も折れてくる。いわゆる心もとなくなって来る。いわゆる自信喪失になってしまう。本当に例えば自信過剰の人が自信喪失をする時の哀れさというものは、皆さんが映画なんかで見られる通りです。それこそ自殺でもしようごとなります。神様を信じて疑わない。「神を杖につけば楽じゃ」というのは神様を信じて疑わない。そういう生きかたです。神様一本です。誰々に縋る誰に頼むと言う様な琴では、いわゆるおかげは受けられても。
百の百のおかげが百に現れてこない。それを分割した様なおかげにはなって参りましょう。50になったり30になったりする訳です。神様を神様一本信じて疑わない生き方を身に付けていかなきゃなりません。昨夜も私ここに出てきたのはもう、夕べは遅うなりましたから、本当にもう一時半あたりですかね、一時半位あったでしょうね。だからここへあの出てきて御祈念させてもろうて、まぁ昨日一日色々お願いさせて頂いて、ある方のお願いをさせて頂いておりましたら、「林与一」いう事を頂きました。
あの映画俳優おりますでしょう。林与一というのを字に書いて御覧なさい。林という字は二つの木とあります。二つのだから二つの心という事です。まぁ今日の御理解でいうならば、あの人にも頼みこの人にも頼み。薬にも頼っとりゃ神様にも頼っとるというのが林です。与一というのは、神様が与えて下さるおかげは一つだと言う事。一つ下さるおかげ。一つの与えられるものそれを今日私が言う、充分のおかげの事です。神様が本当に下さろうとしておるおかげです。
だから林与一ではいかんのです。充分の本当のいうならば、おかげを頂こうと思うならばです二心ではなくて、一心にならなければならない。「この方一心と定めい」と仰る。そこに生まれてくる充分というか、十二分というか。神様が下さろうとする、それこそ夢にも思わなかったようなおかげになって来るんです。現代の医学ではどうにもしようの無いものがです。薬も捨てた医者にも頼らん、という腹を神様に見せて。自分のそれこそ田んぼにそういう薬のようなものは捨ててしもうて、神様に縋る。
いわゆる排水の陣を引いてお縋りをする。そこに一つの潔さというものが生まれてくる。もしこれ薬つけなかったり、医者に見て貰わなかったら、広がりだんせんじゃろうか、死にだんせんじゃろうかという不安も、やはりなきにしもあらずです。けれどもそこにはです、神様一心に御すがりをしてです、もうままよという、神様に御縋りをして。いうならば病気の事でいうなばです、この命この肉体を、神様がお作り下さったんだという事。その作り主である所の神様に、修繕をして頂くんだという腹が決まる。
その腹が決まった時にです、いわゆる排水の陣が引かれる訳です。ままよという度胸が出きる。度胸が出来る代わりその度胸を持って、なら神様へぶつかって行くというのですもう体当たりです。そこにはです充分というよりも、もう十二分と言うた方が良いでしょう。それこそ思うておる以上のおかげになって来る訳です。そういう体験をさせて貰うチャンスというのは、何時もはないです。もうそういう意味でなら、私共は繰り返し繰り返し、まぁ小さい問題大きな問題を通してです、稽古させてもらいました。
そしてなるほどそうだなぁという事を、ひとつ体験させてもらう。そこからいよいよ神を杖につけば楽じゃ、いよいよん時にはどんな時であっても、神様一心に縋ればおかげが頂けるという、いうならば確信の持てれる生活が出来るようになるのです。それを「神を杖につけば楽じゃ」と教えて下さってあるのです。神に一心と言う事を、今日この57節は実に具体的に説いてある御教えです。金を杖についたっちゃダメじゃぞと。木や竹じゃダメ折れるぞと金じゃ曲るぞと。神様一本神を杖につけば楽じゃと。
その楽だというおかげを頂いた時にです、神様が与えて下さるのは一つなんです。林ではいけんという木が二つ。それこそ一心の信心をさせてもらい、不乱のおかげを頂かなきゃならん。一心を立てて誰が何というても迷わん。そのその心の状態というものは、もうどげんなってもよい。神様にお任せしきったからという心なんです。そこに神様のはたらきが起こらないはずはないと信じれた時に、心に生まれてくるのが安心です。
せっかく信心させて頂くのですから、お互いさまざまな言うならば事に直面するたんべんにです、それを一つの稽古のいうなら楽じゃという。いうならば安心の生活が出来ることのための信心。そこにやはり信心にも度胸がいるといわれるのは、そう言う事じゃないでしょうか。信心おかげを頂いて、私なんかもう実に普通からいうなら、臆病人ですけれども、だんだん信心をさせて頂くようになって。神様の間違い無さが分かって、来れば来るほどにです。
いよいよどういう時でも、どういう時であっても、どっこいというね、いうならば受けて立たせて頂く度胸が、だんだん出来てきたように思います。そして本当神様のはたらきちゃ恐れ入ってしまうね、と言った様なおかげを頂いてきております。その体験が素晴らしいです。「神を杖につけば楽じゃ」。林与一ではいかん。一心と定める。乱れない迷わない。一心不乱の信心からでなからなければ、何時まで信心しておってもです、本当の楽というか、本当の安心というものは生まれません。
どうぞ。